音楽と心
まだら模様の鱗雲。正面遠くの電線に止まった一羽が、こちらからは見えない遠くを眺めている。
よくないぞと忠告されている気がした。拳を握る力が弱い。私はまだどうしようもなく未熟だ。
今にもっと痛い目を見るだろうけど、今はこれくらい緩い方がいい。
小さい頃、両親はよく私と弟を外へ連れ出した。お弁当を持って。行く先には色とりどりの新しい景色が待っていた。
車の中ではいつも音楽が流れていた。サザン、ドリカム、ユーミン、ミスチル、スティービーワンダー、ビートルズ……。両親の世代より若いアーティストだが、2人は良い曲、素晴らしいアーティストを広く好み、楽しんだ。
私は壁にもたれ、みるみる移り変わる景色を眺めながら、他に何もしようがない時間にただただ身を預け、音楽を聴いた。人の会話を聞くように、時には色んな考えを巡らせながら。出鱈目な単語を聴こえたまま口ずさんだ。
昨夜通話をした友人の鼻歌を思い出し、ランニング中にサザンのTSUNAMIを流した。飽きるほど聴いてきた曲なのに、初めて聴くような華やかな感覚が、内側に、心の視界に広がった。
それは、子供の頃にはわからなかった。経験や成長を経て、共鳴が増えていく。曲の姿が見えてくる。音楽も人と同じで、理解で繋がっていくものだった。
私は嬉しかった。今からもまだまだ新しい表現や境地を知り、自分の正体を見つけていけるのだと。普遍的な真実を、共通の思いを、切望している仲間がたくさんいる。
その一方で、やっと「はじめまして」と握手を交わしたような音楽たちが、私にとっては旧友だった。私を作ってきた大きな要素だ。
彼ら彼女たちが歌う景色や切ない気持ちを、揺られながら繰り返し想像してきた。言葉、音、声色、意味、選択、表現力、あらゆる方面のアプローチの融合に何度も感動し、鳥肌を立てた。ひたすら耳に入りループする音楽が、私の想像力の欠片といて蓄積され、繋がってきた。
出会ったこともない人達に生きる力をもらう。共通の思いが希望になる。人との繋がりは本来こういうものでいいのだろう。自分が誰かの力になることを考える時もそうなのだろう。
見ず知らずの人でも、理解さえあれば前を向けるのだ。世に歌を発信し続ける人も、同じ気持ちなのだろう。
それにしても私は一か所に留まることが苦手だ。
掴みどころがないとはよく言われる。自分でもそう思う。気持ちがコロコロ変わるわけではない。ただ一か所に留まることが大の苦手なのだ。
同じ人に、同じように接し続けることができない。自分を慕ってくれる人に申し訳ないと思う。不安や不快にさせたいわけではないけれど、周りはそれがわからず、嫌われたと思い出す。当然だ。伝えていないのだからわかるわけがない。
本当の私は、みんなを大事にしたくて、常にどこか心が痛くて、理解だけを必死に求める臆病な人間だ。
誤解せずにわかってほしい。難しいと思わず、見つけてほしい。私に光を見つけてほしい。
恋愛は一か所に留まることを求められるから苦手だ。その部屋に入った私は、振る舞い方がまるでわからなくなり、酸素を吸いつくしてしまう。
岡山のお父さんお母さんが私に目を留めてくれたのは、こういう性分を始めてからわかっていたのかもしれない。理解をひたすらに探求し続ける不器用な生き方しかできないと。
そして、こういう生き方しかできないと言われてきたのは、気休めではなく、事実でしかなかったのだ。
本質的に、現実的に、体質的に、無理なのだ。今に満足をして腰をおろして、建設的な人生を辿っていくような人生とは無縁の体質なのだ。磁石のように反発して、絶対に留まっていられない。
2人はやっぱりすごい。少しほっとした。