小さな解放と先

 愛か恋か執着かプライドか、よくわからないがとにかく苦しくもがいたあの感情は、手放して1日もしたら何でもないことだった。
 特別に映っていた彼も、傍観すると大したことはなかったと思える。またいつ気持ちが変わるかわからないけれど、今は薄っぺらいパイ生地のように思える。
 吹っ切って、次に目を向けた私は最強だ。
 私を乗せて動く電車も、移り変わる外の景色も、あらゆる現象が、明るく活動的なものに思える。
 退屈を覚悟した明日も、風通しの良いエネルギーが循環している。
 気が楽だ。このほうがずっと私らしい。
 
 もし後になって、彼が何か言ってくることがあったらこう聞きたい。「あなたはどれだけ私のことを考えた?」
 食事やデートの機会もなく、控えめなSOSにも苦い顔をした。私の都合や気持ちを考えてくれていると思えたことがなかった。
 私も受け身な人間だが、彼は私以上に与えてもらいたい人だ。それに対して私は負い目を感じ、彼は感じていない。自分を一番愛しているから。
 
 彼の話はもういい。疲れたから考えるのをやめよう。
 疲労した一週間だった。吐きそうなほど同じことを繰り返し考えていた。
 死んだように眠る夜もあれば、わずかな時間も潤いを得ようと貪欲になれる日もある。
 泥沼で投げやりな曲に浸り、身を削る快感に溺れる日は、意思のある音があれほど煩わしいのに、今はそれらも私を運んでくれる風だ。低音もシャウトもアタック音も心地よく楽しい。
 自分の考えや感覚を掘り下げるのも大事だが、すべてをモーラできる広い許容と視野は、たくさんの味方に囲まれ、結果的に救われる。
 貫くより、肩の力を抜いて受け入れるほうが、良い生き方ができる。
 いつも見る空が、丸い窓から見るものだったとしても、飛び出すことができるのだ。
 明日も広い空を見たい。また少し強くなったはずだ。

あっけない終わり

 ごめんねの一言で終わるような、たわいの無い関係だった。
 
 終わった。水の中を這うようにひたすら待って耐えた3ヶ月が。
 ため息と一緒に気が抜けて、ベッドに腰を下ろした。
 
 悲しいのか悔しいのか恥ずかしいのか、そうであってもなぜそうなのか、わからない。
 やっぱり彼の気持ちはその程度だった。私はそれをずっと認めたくなかった。
 
 明日からの日常に彼が消える。それは清々しいようで、心にぽっかり大きな穴が空いたように物足りない。
 どちらにしても続かなかった。彼と関わる中で、幸せや大事にされるという実感とはほど遠かった。だからこれでよかったのだと思う。
 
 私が振る形になったが、実質は振られたと同然だ。
 そういう曖昧な形で収めた彼を、大人だなとも思う。
 
 今日は暑い。
 知り合って間もない大阪の男の子は、一晩話しただけで私を好きになり、非常に真っ直ぐだ。
 考え方や感覚が自分と似ていて、気も使わない。写真を要求することもなく、話をしっかり聞き、理解しようとしてくれる。
 こういう相手に、誠実になるべきなのだ。
 
 あんな最低男には会ったことがない。
 それでも好きだったのだ。彼に思われたかった。
 私は馬鹿だ。また自分の馬鹿なところを思い知った。
 
 明日からのつまらない日常。
 つまらない日常に楽しみを落としてくれた彼。
 自分の至らなさを散々痛感させた。
 
 会えてよかった。私は彼と出会って成長したし、色んな新しい感情を知った。

外向きであることの意味

 SNSで知り合った男の子と明け方の3時半まで話し込み、睡眠は4時間程度。「4時間」という数字を意識しなければ何でもないのに、意識した途端に一日生きていけない気分になる。
 
 GW3日目。今日は美容院の予約を入れていた。表参道にある行きつけのお店だ。
 自粛の間人に会うことがほぼないので、美容院にお金をかけるのは勿体ない気もしたが、それよりも何でもいいから許される範囲での予定が欲しかった。
 当分自粛生活は続く。仕事に支障を来たすことがないので、この機会に髪色を一番明るくしてもらった。
 会社の先輩たちも髭を伸ばしたりと、普段できないことにチャレンジしている。生活に変化をつけることは、些細であっても何てワクワクのだろう。
 担当のお姉さんとは、いつもなぜか上手く話せない。今日はマスクごしだったからか、楽しく会話ができた。私は普段、誰の前でもペラペラ喋るのに、一部の人を前に急に言葉が出なくなることがあるから不思議だ。
 美容院もコロナの影響をもろに受けていると聞いた。それもそうだろう。4月の二週目には、1日のお客さんが3人の日もあったようだ。歩合制の給料は半分になったらしい。表参道という一等地で、テナントの家賃だけでも莫大だろう。本当の意味での救済に繋がるような対策も具体的に報じられていない。行く末を考えると息が詰まる思いがする。
 
 美容院へ行ってよかった。また私の雰囲気に合った素敵なスタイルにしてもらった。髪色はアッシュ系にオリーブを入れ、かっこ可愛い感じだ。明るい髪色のほうが似合うんだなあと改めて思う。長さは4センチほどカットした。TOKIOトリートメントで天使の輪が見えるほど艶々な仕上がりになった。
 毎回思うのだが、対お客さんの仕事をしているプロの人達は、佇まいが普通の人と少し違う。「個」が固まっているというか、その場に立っているだけで様になる。人に見られることに慣れたり、人に魅せる意識が馴染んでいくと、とても魅力的なオーラを纏えるのだなと思う。美容院のスタッフさんはみんな格好よかった。
 
 昨夜、毎日更新される岡山の施設のブログを開き、生徒のまゆちゃんの日記を読んだ。心を打たれ、2度読み返した。
 まゆちゃんとは数回会ったことがある。年齢は10代後半だろう。ボーイッシュであどけなさが残る、明るくかわいらしい子だ。集合の時間も、質問や相槌を投げかけて周りを和ませていた。口数が少なかったり控えめな子が多い中で、彼女の新しいキャラクターを見て驚いた。彼女が入所したことで施設の雰囲気が変わった。
 日記を読んでいると、彼女は私と正反対の性格だとわかる。
 彼女は外向きに育ってきた。明るい表情や大きな声からも伺える。
 彼女は、先日のミーティングという機会で、自分や家族のこれまでを振り返り、己の力のなさを思い知り、深く落ちこんだ。だから、内に閉じこもった自分をやってみたと書いていた。そして、内に閉じこもるという行為は何をするよりも苦しくてつまらなく、それを喜んでやりたがる人はいないだろうと。自分は楽しく過ごせる方法を知っているのに何をやっているのだろうと。
 私は驚いた。施設に来る人で、彼女のような人もいるのだなと。
「楽しく過ごせる方法を知っている」とはっきりと言えるのは、何てすごいことだろう。私は施設で過ごし、その経験を経て社会に出て過ごす中で、楽しく過ごすというのはこういうことだと知ることができた。
 それから「内に籠った自分をやってみた」という表現にも驚いた。私は外向きな自分の出し方を生まれてこのかた持ちあわせていなかった。色んな人に揉まれ、失敗を繰り返し、やっとして感覚を掴んだ。
 それから彼女の純粋さにも驚いた。内向きであっても外向きであっても、大抵の人は自分の特質が心地よく、そこに溺れる。シンプルに良い悪いに応えることができるのはすごいことだ。
 彼女は、施設の理事である岡山の両親についても書いていた。
 “母にも、孤独なこと、辛いこと、悲しいことがあるだろう。それでも、父は父、母は母でいないとならない。そうでないとみんなに受け入れてもらえない。そしてそもそも、誰に望まれるよりもまず、「私は周りの人にとってこういう自分でありたい」という強い意識が、自分自身を勇気づけ、苦しくさせないのだろう“と。
 私がこのことに気づけたのは最近だ。周りのために、自分を信じ、自分を大切にするということに。
 小さい彼女がこう思っているのだ。私も負けていられないなと思った。
 きっと彼女の存在で、強く元気に、そして早く回復していく子が増えるだろう。施設全体も活気に満ちて、元気を取り戻していくだろう。そう思った。
 
 私はまた、気まぐれな自己中男に振り回されている。
 良いほうにも悪いほうにも、考えなければいいのだ。端くれくらいに思っていればいいのだ。
 なんで私はこうも気になる人ができると、頭がいっぱいになってしまうのだろう。
 彼は、最近返信のペースが大分遅い。2日以上音沙汰なしというのもざらだ。睡眠時間は5時間ほどと言っていたから、起きている時もたいして私のことを気にかけていないのだ。
 馬鹿だよなあ。私は何をしているんだろう。
 カフェでPCを叩きながらため息が出た。

河川敷を眺めながら

 目覚ましの音が途中から聴こえてくるような感覚の鈍い日は、コンディションも気分も優れない。
 また一日が始まった。GW2日目。
 私は目が覚めると真っ先に窓を見る。カーテンの隙間から、昨日のような煌々とした陽射しが差し込んでいないことが物足りなく、ダラダラとベッドにしがみついている。
 今日は曇りなのか。それでも洗濯物は溜まっているから洗濯機を回そう。身体を起こし、今日やることを紙に書き出す。
 
 そういえば目が覚めた時、私は泣いていた。夢から抜け出した続きの自分がいるようだった。
 夢の中での私は、始めに、会社の上司の前で涙をこぼした。ある男の子の姿を見て。
 私はその男の子をよく知っているようだった。大学生くらいの歳だろうか。整った綺麗な顔をしていて、明るい茶色の髪が軽やかに靡いている。
 彼はバンド仲間と話している。作曲か、編曲か、楽器のエキスパートか、わからないけれどとにかく彼は音楽で優れた能力を持っていて、チームに大きく貢献している。
 彼はそれを少しも鼻にかけていない。一生懸命に力を尽くしたことが喜ばれる居場所と役割を与えられている今に幸せを感じ、穏やかに笑っていた。
 私は親心の気持ちで涙を流したのではない。彼の居場所はごく自然にあった。仲間が集まり、今の状況に感謝している彼。私はそんな彼の佇まいが眩しく、羨ましかった。
 その場面の後、私は祖母の家に戻る。母や従姉妹の家族が、祖父のお墓参りへ行くから出かける支度をしろと私に言う。
 私は疲れ果てていて、今は行きたくないと怒り、ソファにどっかりと座る。部屋はリフォームする前の、祖父がいた時代の模様だった。
 母たちがバタバタと出かけた後、部屋には私と祖母が残った。祖母は、今のタイミングで墓参りへ行くのは、仏様をきちんと敬えないと嘆いていた。ちゃんとした理由を言っていたが覚えていない。
 私は祖母の背中を見ながら、残された時間と救われない思いを想った。
 人は他人の大事にしたい思いを、どれだけ理解し、汲んでやることができるのだろう。全部を理解するのは無理であっても、私はやっぱり一つとして取り零したくないと思う。尊重できなかったとしても、わかっていたい。理解者でいたい。取り残された思いも、そもそもそれが見えない自分も、堪えられない。
 現実に戻ってきてからも、声を上げてしばらく泣いた。泣きながらも心は静かで、ぼんやり遠くを見ていた。
 
 今日は北千住まで歩くことにした。北千住まで行けば、空いているカフェがあるだろう。
 自粛中だが、できることはとりあえずやっている。青汁にプロテイン、ランニング、ヨガにストレッチ、高浸透ナノイーのドライヤーで髪のケア、肌や爪のケア、キーボード、映画、音楽、日記。積みあがっているのかどうかわからないフワフワした感覚だが、全部なりたい自分に必要な要素だ。
 岡山の父が書いた、感謝と怒りは共存しないという記事を読んだ。それから昨夜「10日で男を上手にフル方法」という映画を見た。
 映画は、広告代理店に勤めるベンが、ファッション誌の記者のアンディに、嫌われる目的で散々振り回される。彼は何度も憤り、屈辱を味わい、奥歯を噛み、頭を抱える。それでも苦虫を噛むように彼女の前では笑ってみせる。彼女を不愉快にさせず、何度も気を入れ替える。仕事の契約権がかかっているにせよ、あれほど常識外れな対応を受けたなら、私は相手に軽蔑や憎しみしか抱かないだろう。
 彼はそのうち、彼女の素の涙や笑顔に振れて愛情を抱く。これまでのことは全て水に流していた。
 私はベンを見ているうちに、元カレを思い出した。彼も私に憎まれ口を叩かれ、可愛くない対応をされ、何度も憤り反発した。それでもいつも諦めたように私を愛した。そんな可愛くない君が好きで一緒にいたいんだと私を抱き寄せた。
 彼は心底私を愛してくれていた。理解してもらったわけじゃなくても、私はそれで満足で幸せだった。なのに。それで満足できなくなってしまったのはいつからだろう。
 荒川に架かる橋に差し掛かると、視界が一気に開けた。私の大好きな空が広がる。川の先に、空に浮かぶように行き交う電車が見える。河川敷には緑の広場が広がり、子供が走り回ったり、家族がピクニックをしている。
 いつも電車から眺める風景だ。私は毎朝、電車が川へ差し掛かると必ず顔を上げる。キラキラと反射する川面が美しく、心が洗われるような気持ちになり、励まされる。今は反対側から同じ風景を見ている。過去の自分と向き合っているようだ。
 絵のような景色を見つめながら、私は結婚はできないかもしれないと思った。
 いつも相手に足りないものを致命的な欠落と感じて、やるせなくなる。感謝と怒りは共存しない。理解や安心や思いやり、尊重、それらもすべて怒りと共存しないのだきっと。
 私は求める気持ちが強すぎるのだ。今はそれでしか自分を満たすことができない。依存的な感覚かもしれない。
 にっくんが他の人と違うのは、彼に特別な何かがあるというわけではないと思った。
 一緒にいる時の私が違うのだ。手を広げて回りだしたくなるように、心も体も解き放たれる。色んな蟠りがとるに足らないものに思えるくらいに興味と快感が溢れて、感覚が解放される。
 そう、彼から離れられないことで、彼の最低な性格や行動をとことん振り返り首を捻ったが、彼がどうじゃないのだ。彼を前にすると、化学反応のように私の細胞が光り出す。開放される感覚が特別なのだ。
「こっち来いよ」と強引に手を引っぱられて渋々行った世界にあるもの。それが私の求める刺激によく似ているのだ。種類はまるで違くとも。
 趣味もない、話題もない、お人形のような弟の奥さんを思い浮かべた。弟は彼女を選んだ。彼女でいいと思ったのだ。
 私は彼女のようにはとても生きられない。彼女をそこまで知らないので失礼かもしれないが、彼女のように生きられたらどんなに楽な人生だろう。
 私はいつも飢えて、乾いている。いつも今いる場所が物足りなくて、窮屈で、広い世界へ出ることを夢見ている。
 もっと稼いで、自由に使えるお金を増やしたいと思った。私ならそのお金を、有効的に効果的に使う方法を考えていける。
 
 先日何かの小説で読んだが、人生は待つことの連続だなと思う。急いだところに欲しい物はない。じっくり時間をかけ、目で見て、耳で聞いて、考えて、感じて、そうでしか得られない、何にも代えがたい幸せや充実を順々に味わっていく。そこに特別な境地がある。本当に待ちくたびれるし、忍耐が必要だ。
 私はずっと、岡山の父がいつものんびり構えていることが不思議だった。どんなにくだらないと思うようなことも、今目の前の問題に力を尽くすことが大事だと私たちに言い続けた。誰も真似のできない偉大な父には、1分1秒と積みあがった色濃い経験がある。
 私は岡山で過ごしている時、待つことができなかったのだと思う。いつも先を急いでいて、答えがすぐに欲しかった。岡山の両親は伝えようとしたが、私にはそれを理解できるだけの人間性が育っていなかったから、実にならなかった。
 私は「今」に没頭できていなかった。地道な日常がくだらなく、つまらなく、時間を無駄にしているように感じた。
 東京へ来てから、こうして何もしないまま過ぎる時間に、何度も心を痛め、諦め、力のなさを思い知った。そしてその先にあるものが絶望ではないと思うようになった。やっと「待つ」ことの意味と重要さがわかってきたように思う。
 
 今朝弾いたヨルシカの「パレード」は、3つのコードを繰り返す取り掛かりやすい曲だが、とても私好みの曲だ。
 イントロのこのメロディを奏でた時に、ナブナさんはどう思ったのだろう。あ、また見つけた。心を撫でる言葉や景色を見つけた、そう思ったんじゃないかな。
 今だから見える。
 
 私はもっと強く大きくなれる。
 諦めず地道に過ごしていこう。愛する人たちや自分を信じるのだ。

散歩をしながら

 緊急事態宣言による自粛期間が、1か月程度延長になりそうだ。
 そんな中始まったGW。犬みたいに駆け回りたくなるような陽気だが、約束やイベントの予定は何もない。
 誕生日を迎えてから早1か月。もう29歳の12分の1が過ぎようとしている。出会いも恋愛もあったもんじゃない。
 
 この期間、人との出会いやコミュニケーションではないところで、どのようにしたら自分を磨けるかということに必死だ。
 代り映えのない部屋の中で、いかに魅力的に成長していけるかは、本人の意識次第だ。良い女性になるために1秒だって無駄にしたくないという思いはあるものの、興味のないことにはまるで気が向かないし、根詰めて勉強に取り組むことも受け付けないので、扱いにくい自分につくづく苦労している。
 
 昨夜もまた映画を見ながら寝落ちした。電気はついたまま、寝支度もしないままの、ため息をつきながら目覚める朝だった。
 いじけて目を開きたくないもどかしさと葛藤する。うっすらと瞼を開くと、そんな気をまるで無視した陽の光が、自慢気に外の世界を染めている。
 仕方ないなと思いながら身体を起こし、紙に予定を書き出した。
 とりあえず、毎日仕事のつもりで過ごそう。息が詰まったらひとまず外へ出て、空の下に身を置き、辺りを眺め、光や風を受けよう。木や花や建築物のように。そう思った。
 
 この情勢の中で奇跡的に営業している、ユニクロを2つ先の駅に見つけたので、運動がてらと、この季節に着る服ない不満を解消すべく、歩いて向かうことにした。
 紫外線の強さは、聞かなくてもわかる。日焼け止めとキャップとマスクで日焼けは免れただろうか。
 足をただ動かしているだけの移動という時間は必要なものだ。普段は片手間に聴いている音楽を、歌詞から音から、考えを巡らせながらしっかり聴き込む作業は、何より私の心を深める。癒しと教訓を及ぼす。
 お気に入りのプレイリストを聴きながら、1時間の散歩はあっという間だった。1時間でも15曲ほどしか聴くことができないのだ。普段の通勤では、ない時間を惜しむように、厳選した曲を詰め込んでいる。
 
 初めて通る道なのに、見慣れたただの道なりないし住宅街だと感じてしまう自分は恐い。
 一つでも多くキラキラしたものを発見できたり、新しい思いを巡らせるきっかけに繋げられたり、そういう想像力のアンテナを増やしていきたい。
 自分の身長を超えるほどの大きなサボテンを見た。どのように育てたのだろう。ミニ藤棚。空の水色に馴染もうとするような、瑞々しく生命力に満ちた新緑。釣り糸を垂らすおじさん。玄関先で子供とモルタルを修繕しているお父さん。
 自転車屋さんを数軒見かけた。広いウィンドウの端から端まで並べられるだけの自転車を飾り、活気があった。このご時世なので繁盛しているらしい。新品の自転車を引きながら歩く夫婦や親子を何人も見た。
 休業の張り紙の個人商店。どれだけ見ただろう。私が外出を控えなければと思うのは、祖母を案じてのことだけではないと気づいた。
 奇跡的に現時点で自分は仕事がなくなったり収入が減ったりの影響はないけれど、その被害をダイレクトに受け、苦しんでいる人達がたくさんいるのだ。私も収入が少しでも減れば生活が回らなくなる。お金がないことによる辛さや不安は痛いほどにわかる。
 決して他人事ではない。自粛に真剣に取り組まない人は、被害を受けていない人達だろう。外を堂々と出歩き、飲食や買い物で金銭を消費して欲求を満たす行為は、被害を受けて首が回らないような、追い詰められた人たちを馬鹿にする行為だと感じる。だから私は少しの外出でも気が引けてしまうのだ。(お金を使うことで営業店を助ける効果があるのもわかるが、それはそれだ)
 白い車が通り過ぎるたびにナンバープレートに目が行き、12番ではないことがわかってほっとする。
 
 ユニクロで2万円も使ってしまった。着るのか着ないのかわからない服を。3回も試着室を往復した。
 二の腕の太さは毎年変わらない。鏡を見てテンションが上がる姿になりたいと心から思う。
 会計はセルフレジで、商品を入れたカゴを指定された位置に置くだけで、支払額が瞬時に計算される。タッチパネルを推し、クレジットカードを通す。こうも会計が簡素になると、2万円の大金という感覚が大分薄れる。
 
 帰り道にカフェでゆっくりしたかったが、どこも休業だった。マックも店頭の持ち帰りとドライブスルーのみの営業。
 地元の駅まで戻ってから、セブンイレブンでカロリーゼロのカルピスを買う。人が多く、繁盛していた。コンビニで買い物をしたのも久しぶりだ。コンビニで買う時は目新しいものを買いたい。
 帰り道、曲を聴きながら何度か、ははっと声を上げて笑うことがあった。今まで少しも心に響かなかったラブソングをしみじみと聴いている自分に笑いが込み上げた。
 何とも情けないような、可愛く思えるような気分だ。悪くない。それでも、こうも悩んで落ち込んで不安になってと、狭い範囲で堂々巡りをしている自分はまだまだだ。
 
 昨夜12時に車でやってきたにっくんは機嫌がよろしくなかった。
 彼が株かビットコインかのスマホ画面を眺める姿は様になっていた。驚いた。初めて、彼がちゃんと仕事をしているのかもしれないと思った。
 それもそうだ。稼がなければ生活していけないのだから。これまで自社を経営してきて収入の多かった人だ。親のすねをかじってぬくぬくと過ごすことを喜んで選ぶ人ではないだろう。
 彼は、私が声を聞きたくて「話さない?」とラインで送ったのを、改まった話があるのかと思って時間を作って来てくれたようで、話がないとわかると不満そうだった。
 
 彼との時間で、また一つ発見があった。気分は悪かったが。
「私のこと好き?」「他に会ってる子いない?」私がそう聞いたことに、彼は「いつも同じことばっかり聞く」と言った。
 元彼も言った。「saaさんは同じことばっかり言っているよ?」と。
 驚くのは、自分では同じことを尋ねている自覚がないことだ。前に言ったことを忘れているのではなくて、前は前、今回は今回と、別物のつもりでいる。
 状況は常に変化している。数日経って変化した心境は、私の中では「前と同じ」ではない。だから新しい気持ちで、私は毎回尋ねる。
「いつも同じことを聞く」と彼が言うのは、一度言ったことは変わらないという前提があるからだろうか。「男に二言はない」ということなのか。
 私がいつも同じことを尋ねるのは、自分の気持ちが短いスパンで頻繁に変わることを意味しているのだろうか。自分がそうだから、相手もそうだと思い心配になるのだろうか。
 それから、これは私の性格的なものなのだろうか。そうではない気がしてならない。
 私は彼たちのスタンスがいまいち理解できない。男性と女性の感性の違いじゃないかと思うのだが、実際のところはどうなのだろう。
 私は彼に不満が多い。例えば、返信をしなかったり、きちんと会う日時の約束をしようとしない。聞いたことに答えないこともある。都合のいいことしか連絡をしてこない。対応が雑で、都合のいい相手と思われているように感じている。
 でもそれが、そうではなかったら。自分と相手の、恋愛に対する比重の図を想像してみる。
 私は好きな人が出来ると、自分の脳内を100%相手が覆う。仕事や生活と重なる感じだ。恋愛という背景の上で、生活や仕事が繰り広げられる。
 彼や元カレ、男性というものは、そういう物事を重ねずに分割する考え方をしているような気がする。しっかり線で区切る感じ。だから仕事や夢中になっているものがある場合、それが終了するまで恋愛に目を向けない。
 もし彼が本当に仕事(趣味)に打ち込んでいて、私への思いもちゃんとしたものだったのなら、その境界を超える時間を取れずにいたということになる。
 そういう可能性もあるのかもしれない。恋愛で頭をいっぱいにして他のことが手につかない哀れな状況は私であったのもしれないと思った。
 
 帰宅後、ヨルシカのピアノ譜にコードの書き込みをしてからこうして文章を書いていると、彼からラインが来た。「連絡はたまにかな?」と。今日一日何も送っていなかったことが気になったのだろう。自分はよくあるのに。
 こういう人なのだ。私も悪気がないのだから、彼の悪気のなさも認めていかなければいけない。
 自分の時間を充実させようと思った。
 こんな感じで、今日も一日が終わった。

ブログ開始

 ブログを始めようと思ったが、外向けのテーマを意識すると筆が進まない。
 
 私の内には、未熟ながら、なぞって伝えたいと向き合い育ててきた確かな思いがある。
 それがどんなに発展途上の途中であっても、語り、伝え、共有することで、次の一歩に進めるように思った。
 その成果はおこがましいので考えないし、期待もしない。可能性として、少しでも誰かを救う要素になったり、自分が明日を生きる自信やエネルギーになったなら嬉しい。
 
 冒頭に戻るが、外向けのテーマを意識した途端に、良い顔しいの性格が邪魔をして筆が進まなくなってしまったので、私の日常や感じたことを、気の向くままに綴ることにした。
 一つ言っておくと、自己満足の、自分だけの世界に浸る気は毛頭なく、そういうことは少しも望んでいない。
「きっと自分だけではないだろう」という思いや感情で、出会い、手を取り合い、思いもしない未来を描く、そんな希望を願って。
 
 よろしくお願いします。
 
 saa